パスタをゆでろ

一方的に話をしたい猫背からの打診

論理的な人ということ

28になります。

最近のこと。

論理的思考のこと。
わたしは論理的らしい。ロジカル人間らしい。おそらくそうなんだと思う。
聞こえはいいが、論理に重きを置きすぎで、側から見たらそれは非効率的で荒唐無稽に違いない。しかもそれをわたしは理解できない。なぜなら論理的に説明されうるものではないだろうから。

資格取得講座でカウンセリングの真似事をしている。そこの個別指導でロジカルすぎる、と言われた。徹底的にそこをマイナスポイントとして指摘された。あまりにも言われたものでびっくりしている。
ただ先生も先生で強い言葉を言わないように選んでいってくれた言葉だから、本当に言いたいということは違うんだと思う。それを整理したく日記を書いている。人に話そうかと思ったけど、自身がロジカルなことに悩んでいるなんてひどく滑稽だ。
カウンセリングのはずなのに相手を詰めてしまっているらしい。悪気は全くなくて、わたしはただ解決の糸口を探してるだけだ。メサイアコンプレックスから。

小学生のとき、討論大会で相手チームの子を泣かしたことがある。わたしはまじめに取り組んでいただけだからビックリした、悪気なんてなかった。
ことを、ふと思い出す。

論理的だ、と評されることは初めてではない。就活の時に何度か言われた。グループワークの時に人事に名指しで、選考インターンの最後にその論理的思考力に期待してますと人事からいわれ最終面接はボロボロだったのに何故か内定がもらえたのは多分インターンの加点だったろうし、発表を見てた他グループの人が選考の後話しかけてきたりとか

正直自分が論理的だという自覚はなかった。わたしは大雑把だし妹って言い当てられがちだしよく泣くしよく怒る。わたしは感情的な人間だ。
だから言われても、比較対象の周りがバカでラッキーだったと思ってた。自分が論理的だとは本気にしなかった。

でも、前の長く付き合った恋人と別れたのは論理的に理解できなかったからだった。そうそう。
多分、わたしは、感情によって、良しとする結論は決定されていて、それに向かって論理を組んでいるんだ。
後出しの論理。
だから結論が違う論理に関しては否定的なんだと思う。
別れようって思った時は、ああ違う論理があると気づいたからだ。わたしが騒いだところでどうしようもないと分かったらもうやれることはなかった。しあわせにする方法が見当たらなくなってしまった。

大学生のとき、ゼミの授業が好きで嫌いだった。宿題をやってる時間、それを発表する時間、先生と討議する時間、たのしかった。嫌いなのは他の人の発表を聞いてるときだった。
全員なわけじゃないけれど、大半が調べ学習に感想文みたいな発表で憤りを覚えた。正直見下していた。参考資料を直接読んだ方がよっぽど有益で、あなたを挟んだことで初めて見えるものが全くない。なんのための発表なんだろうか。わたしはこの発表をきいて共感をすればいんだろうか。

論理的の反対は共感だという記事を見つけた。論理的だと共感できないらしい。つまりは受容できない。
論理だってないものは認められない。先ほどの話に戻ると、自分が認めない論理は認められない。
確かにそれは暴力だと思う。モラハラっぽいなと思った。
しかも質がわるいのがわたしはやっぱり感情も大事にしてるということだ。
それで、おそらく本当の論理的に成り損なっている。感情にひっぱられた論理は歪んでいるだろう。

なんとなく先生の言ってたことがわかってきた。
一番大事なのは良い人間であることではなく、自分の悪い部分を悪い部分として認知することだ。