パスタをゆでろ

一方的に話をしたい猫背からの打診

ララランド


「ララランド」


元彼賛歌ミュージカル、読点で終わる恋。





話題の映画ララランドを見てきました。じっくり積み上げていったしあわせの過去ジェンガを屋根裏部屋で見つけるような映画。構成もそうです。夢みたいにカラフルな場面を積み上げ積み上げ、、、、積み上げ切ったところで5年後に切り替わる。積み上げたジェンガは崩されることもなく、そのままにされて、ずっとそのままだ。ジェンガが新たに積み上げられることはもうない。(あれはロマンチックだったなあ)と思い出を撫でまわせるひとへ。二人は両想いで始まり両想いのまま終わる。


全編が回想で、ミュージカルによる妄想じみた脚色で彩られる。
昔のことをどんな風に思い出しますか?その時撮った写真や動画を思い出すのではなくて、自分の脳みそにだけ残ってる思い出。自分が見る記憶だから自分は映らないはずなのにまるで第三者のような視点だったり、何かが補てんされたり塗りつぶされている。私個人の記憶に音楽は流れないけど、流れる人もいるらしい、ララランドみたいに。
ミュージカルみたいに思い出す恋なんてのはもう過去だとはっきりわかる。結婚とは生活であるから、つまりは舞台をおりるということだ。ミュージカルは非日常だ。ミュージカルの音は記憶というよりは知識の音だ。あとからどんどん補てんされ削除された甘くまあるくなった記憶。
二人は二人のままで成功することはできなかったのか。「もしも」セブと結婚していたら…の描写がこの映画の全てだ。これをかくための映画だ。綺麗に整えられた記憶の続きを想像することは、なんて悪趣味なんだろう。涙がぼろぼろと出た。なんて悪趣味なんだって呆然とした。刹那的な過去のしあわせを正義として描くなんて、不道徳だ。
ドラマチックな恋愛は瞬間冷凍して、もう冷凍庫の奥の奥にいれて。そんなうちに自分も環境も、要は全てが変わって、あの時の気持ちを正確に思い出すのは難しいだろう。過去のしあわせを繰り返し思い出すのはふしあわせな人がすることだ。まるで熟しすぎた桃やトマトのように少しつついただけで傷がついてそこから腐っていくような思い出は抱えてはいけない。しあわせだった思い出なんていうのは何度も何度も取り出して撫でまわすと手垢でまっくろになってなんだか病気みたいにウイルスみたいになる。忘れたころにふと見つけて懐かしんで、そして触れずにおくくらいでないと健全ではいられない。そう、見つけてほほ笑むくらいしかできない。


冒頭の曲「誰かが」あなたを見つけてくれる」という歌詞。彼女は他でもないセブに見つけられた。セブに見つけられて彼女は成功したのだ。セブは一度も彼女を否定しなかった。彼女を安心させるためレギュラーの仕事をもち、忙しい仕事の合間を縫ってサプライズをしたり会いに来たり、オーディションの知らせを持ってきたり彼はどこまでも彼女が好きだった。そう、どこまでもだ。
最近考えること、愛は原動力や手段であって目的ではない。愛する人を手に入れることで私たちはどこにでもいけるようになるのであって、そこで立ち止まるのではない。泳ぐときのフィンや酸素ボンベみたいなもので、目指す島ではない。
愛が足りない子というのは親のそばを離れることができないらしい。愛が燃料タンクだとする。タンクが小さいと彼らは底が尽きる前に充填しにすぐに戻ってくる必要がある。なんなら有線の充電でなければ動けない場合だってある。タンクが大きい者はどこまでも遠くへ行く。正月盆くらいの供給ですむようになるのだ。何故なら出かけた先で違う供給所を見つけるからだ。セブとは互いに大きな大きなタンクを与えそれぞれ出かけ、とても遠くへと行くことで、体も心も変わり、より似合うタンクに自然としょいかえる必要があった。あの時の二人はもうない。だからあの時の愛はもうここにない。でもあの時の自分は間違いなくまさしく自分で、だから、あの時の愛もまさしく愛なのだ、どうしても。


夜明けの誰もいない街を二人きりで歩いた。何者にもなっていないときに夢を言い合った。お互いが好きだという理由でわんわん泣いた。夢みたいにきれいな場所でふざけて笑いあった。相手だけが止まってみえた、自分と相手だけが世界で浮いているように思えた。どこでだって私と貴方の君と僕の二人きりだった。


La-La-Land:幻想状態